ミサのご案内Mass Schedule

- 主日のミサ
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午前9:30日本語 毎週日曜日
土曜日午後7:00(日曜日勤務の信徒のために)
午後3:00ポルトガル語 第1・第3日曜日
(調整中)ベトナム語
- 平日ミサ
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毎週水曜日午前 9:30
- 祭日のミサ
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守るべき祭日
復活祭・クリスマス・神の母祭(元旦)(※別途お知らせ)
平日にあたる祭日午後7:00
ミサとは
カトリック教会のミサとは、あらゆる祈りを含む一番大切な式典です。日曜日だけでなく、平日にも献げられ、尚も、結婚式、葬儀、洗礼式などの典礼行事がミサの中で行うことは有意義であり、誰でも参列するように招かれています。
ミサの由来は、キリストが弟子たちと共になさった 「最後の晩餐」にあります。その時にイエスは、十字架上でご自身の命を献げることによって神の限りない愛を世界に注ぎ、すべての人を救ってくださることを約束しました。そのしるしとして、イエスはパンとぶどう酒を取り、弟子たちに与えてこう言われました。「これがあなた方のために渡される私の体である。(中略)私の記念として行いなさい」(ルカ20:19-20)と。キリストのお望み通り教会は世々にわたってミサの時に「最後の晩餐」を繰り返し、キリストの死と復活を記念します。
「ミサ」という言葉は「派遣」を意味します。信者はミサの時に心を清め、聖書に記された神の言葉と「キリストの体(聖別されたパン)」を頂き、神と一つになる恵みを感謝して賛美します。また、派遣された者として、実践生活においてその恵みを生き、多くの人と分かち合う使命を果たすように召されています。
「光の道行」である御復活の14留
聖霊降臨祭、おめでとうございます。
聖霊降臨の祭日は50日間の復活節を終わらせ、典礼歴を年間に移します。御復活節の御言葉の典礼は、キリストが御復活の日から40日にわたって弟子たちに現れ、御昇天なさって御父のもとから聖霊を送ってくださったことを記念します。聖霊降臨は教会の誕生のお祝いでもあります。御復活の主日から聖霊降臨までの50日間の出来事が14留でまとめられることに気づいた教会は、この神秘を黙想のために私たちに「光の道行」を与えます。
「光の道行」は、20世紀の最後の10年にイタリアで始まりました。そのインスピレーションとなったのは、カリスタ・カタコンベで初代教会時代から残っている闇から光へと過ぎ越して行く御復活なさったキリストのフレスコです。それは、十字架のいけにえによる世界の救いがキリストの復活の神秘によって完成されたという強い信仰に基づいての証しです。同時に、教会は御復活の喜びをもって、あらゆる悲しみと困難に打ち勝つという信仰の歩みへと招くものです。したがって、長い伝統を持つ「十字架の道行」が「光の道行」によって続けられるのは、キリスト教の中で必然的なものであると思われるようになりました。
2000年の大聖年に当り、「光の道行」の御復活14留がバチカンの典礼秘跡省によって公式に承認されたので、祈祷書に載せられ、現在、全世界に広がりつつあります。両道行がラテン語で近い発音を持つことから、「Via Crucis(十字架の道行)」と「Via Lucis (光の道行)」は、キリストが受難から復活へと辿った過越の神秘が同じ道であると実感させられます。その救いの神秘を黙想する私たちは、キリストが死から命へ、闇から光へと過ぎ越すことを心に留め、キリストと共にその道を歩むのは、私たちの信仰の喜びと救いの完成に貢献するものであると信じます。
この度、「光の道行」の日本語版にする要因は、神言会が今年、2025年に創立150周年を、「示せ光を、照らせ世界を」というモットーを掲げて祝うことにあります。神言会と聖霊会が同じ創立者、聖アーノルド・ヤンセンの霊性を引き継がれて、ヨハネによる福音のプロローグにある命の光を持った神の「ことば」ならびに、ご復活なさったキリスト
が弟子たちを派遣するに当たり、聖霊の恵みで照らしてくださったことを自分たちの霊的な宝にします。つきまして、創立のお祝いを記念するために私は、「光の道行」の日本語版を作成し、両修道会の創立者霊性委員会の協力の中で、これを祈祷書として出版することができました。これから、神言会の宣教司牧の場ではのみならず、この祈祷書は全日本の教会の中で御復活の信仰を深めるための道具となるようにお祈り致します。
2025.06.08
主任司祭 ジエブーラ・エウゲニウス(SVD)
聖母の名、マリア ― 聖母月にあたり
5月は、カトリック教会で聖母月とも呼ばれています。カトリックの伝統にしたがって、聖母月にあたり、教会聖堂で、また家庭では、毎晩祈るために集まり、ロレートの連祷を唱えたり、聖母の聖歌を歌ったり、ロザリオを祈ったりする習慣があります。草木が花を咲かせる季節ですから、古代ギリシャ文化の中では、5月に花の女神、フローラを拝んでいたと言います。ところで、キリスト者にとって、女神ではなく、人類の中で一番素晴らしく咲く「花」とは、神の子を身ごもったおとめマリアですから、5月を聖母マリアに捧げました。
カトリック信者は、「イエス」の名の次に、「マリア」という名を大いに口にします。しかし、その名の意味はあまりよく知られていません。聖書学者によりますと、この名の由来は中東地域にあり、民族によって発音も意味も異なっています。「マリア」とは、メソポタミアで「喜びで満たす者」、西セム部族で「高貴な者」、聖書の言葉であるヘブライ語では、「愛しい者」、「海の一滴」、「苦いもの」、「反対する者」という多くの意味があります。
教会では、聖母マリアは先ず「新しいエヴァ」です。「すべてのものの母」と言われるエヴァは、楽園で悪魔の誘惑に負けて神の言葉を否定したため、この世に罪と苦しみが訪れたわけです。それに対してマリアは、その名の意味どおりに、世の中にある悪に「反対」のしるしとなり、神に「愛された者」として救い主の母に選ばれました。
教会の中では、神からの啓示に沿ってマリアは多くの名称を持つようになりました。御告げの時に、神から大天使ガブリエルの口をとおして、「恵みに満ちた者(ケハリトメネ)」という名称を頂きました。こうして、私たちは神の言葉にしたがって、「アヴェ・マリアの祈り」を唱えるようになりました。神の御告げに、「お言葉どおりこの身になりますように」と応えた聖母マリアは、神への一言のお世辞ではなく、御子を自分の胎内に宿した時から、被昇天までの「苦しみ」に伴った全生涯を神への応答にしました。
使徒たちから信仰を直接受け継いだ教父たちは、「海の一滴」というマリアの名を解釈して、この世の傲慢の罪に対して、マリアが謙虚を極めた表現であると教えました。神の御心に限りなく忠実であったために天に上げられた聖母は、美しく輝く「海の星」となったことを表わしました。それは、方向を定めるために北極星を見て海を渡る船のように、教会という「船に乗っている」私たちが、「海の星」である聖母マリアを眺めながら、自分たちの人生を天におられるキリストに方向付けて進むことができるとの教えです。
フランスのルルドで1858年2月11日に少女ベルナデッタに出現した聖母マリアは、ご自分のことを「無原罪の宿り(イノセンタ)」であると言いました。こうして、聖母月にあたり、私たちも聖マリアと心を一つにして祈り、清らかな人生の旅を天国へと歩み続けることができるよう、マリア・イノセンタの取り次ぎを願いましょう。
2025.05.01
主任司祭 ジエブーラ・エウゲニウス
序
半田教会では、2024年11月17日(日)に、「至聖三者」のイコンと共に、除幕、祝別されたサン・ダミアーノの十字架の画像が聖堂内陣に設置されました。オリジナルは12世紀にウンブリアの無名の画家によって描かれた十字架のイコンで、イタリアのアッシジの町にある聖クララ教会の聖堂に掛けられています。
アシジの聖フランシスコがこの十字架を黙想した時、「教会を建て直すように」という神からの啓示を受けて、フランシスコ修道会の創立に至りました。その理由で、この十字架は、「聖フランシスコの十字架」とも呼ばれています。
この作品は、ヨハネの福音によるキリストの過越の神秘を反映します。即ち、この十字架は御受難に留まることなく、御復活によって救いの完成、神の愛と命の勝利を表現します。
1)十字架に掛けられているキリストの体の表現
御受難を表現する十字架と違って、このイコンの中で描かれているキリストの体は穏やかで、真っすぐに立って力強く映っています。手足には傷跡が残っているが、釘はなく、御復活なさったキリストの自由な姿が浮き彫りにされています。頭には茨の冠の代わりにゴールドの光輪が、御復活の栄光を現しています。首はがっしりと太く描かれ、キリストのまぎれもない義を象徴します。大きな胸は、皆に新しい命の息を吹きかけるように、霊を送ってすべてを新しくする力に満ちています。キリストの目も大きく開かれて、すべてを見守るようになっています。横に伸びている両腕は、キリストが皆を御自分の方に引き寄せたい印象を与えます。
キリストの両腕の背景にある黒の長方形は、「空の墓」を表現し、キリストが死の暗闇から復活の光に移った表現です。その辺りにいる天使たちは主の御復活を告げ知らせています。十字架に釘付けられた傷跡から御血が豊かにほとばしり、天使たちを驚かせます。それは、いけにえの小羊となったキリストによって、神と人の間に結ばれた新しい契約の血を示します。流される御血は、命を献げる最大の愛と永遠の命の象徴であり、十字架のもとに近づく人々に復活の命を注ぐものです。即ち、「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も死なないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3,16)という福音の言葉が成就された表現です。
キリストの全身は、薄い金色の輝きを持って周りを照らし、「私は世の光である。私に従う者は、暗闇の中を歩むことがなく、命の光を持つ」(ヨハ8,12)とのキリストの言葉を思い起こさせます。イエスの腰を覆う衣は、大祭司の着物の一部であり、キリストは祭司として人と神の間の仲介者で、人々を罪から清め神の祝福を与える役割を現します。
キリストの頭上には、“NAZARE REX IUDEORU”というラテン語で書かれた札があり、「ナザレ人のユダヤの王」を意味します。もともと罪状書きの札は、救い主が王となるという預言の成就を知らせています。
2)御昇天の描写
十字架の上部には、愛の結晶を現す赤いメダリオンの中で御昇天なさるキリストが描かれています。キリストはメダリオンの円を破るほどの勢いを持って天に昇り、大喜びの中で天使たちによって歓迎されています。彼の衣服は金色で、右手に王笏を持って御自分の王権と勝利を現します。ご自分の後ろに広がる赤いスカーフは、キリストが残してくださる愛を表現します。
また、頂点にはもう一つの赤いメダリオンの半円の中で、中には祝福を与えている御父の右手が見えます。伸ばしている三本の指は、人となった御子が御復活によって、その人間性と共に三位一体の交わりに入る神秘を促しています。
3)キリストの過越の証人
イエス・キリストの十字架の傍に、御死去と復活の証人が紹介されています。重大な証人として登場するのは、キリストの右手の下に母聖マリアと使徒ヨハネで、左手の下にはマグダラのマリア、クロパの妻マリアとカペナウムの百人隊長という五人です。そして、両脇に小さな証人、ローマの兵士、ステファノスとロンギヌスが入っています。
(1)聖母マリアと使徒ヨハネ
イエスの右手の下には、聖母マリアは濃い赤と紫の服を着ており、赤は深い愛を、紫は女王の威厳を示します。使徒ヨハネのチュニックは純潔を示す白であり、マントはバラ色で、頂いた英知を表現します。なぜなら、ヨハネだけは十二使徒の中で勇気を持って十字架の下で、聖母マリアと共にキリストの最期を看取ったからです。また、ヨハネは御復活の後にペトロとともに空の墓の様子を見て、キリストの復活を信じた最初の弟子です。
十字架の下に立つ聖母マリアと使徒ヨハネはお互いを見つめ合います。それは、十字架上からキリストの語った言葉を受けたばかりの二人の関係を現します。すなわち、キリストは聖母マリアに「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハ19,26)と、また、ヨハネには「見なさい。あなたの母です」(ヨハ19,27)と言ったからです。十字架に至るまでキリストに従う者は誰でも、神の子どもとなり、聖母マリアを自分の母とするメッセージを表しています。
(2)マグダラのマリア、クロパの妻マリアとローマの百人隊長
イエスの左手の下に一番近く立つ女性は、マグダラのマリアです。キリストへの深い愛の象徴である緋色の服を着ており、青いマントはその心の純粋さを物語っています。顎に当てている手の仕草は、自分が復活したキリストの最初の目撃証人になった驚きを現します。その隣に立つのは、クロパの妻マリアです。彼女の薄緑のマントと土色の衣服は、最後までキリストに希望を置いてキリストに謙虚に従う者の模範です。
脇にはローマの役人で、カペナウムの百人隊長がいます。彼の肩越しに見える少年は、キリストによって癒された彼の息子です。百人隊長が左手に木片を持っています。それは、彼がイスラエル人を愛し、祈るために会堂を建てたしるしです。百人隊長がした偉大な証しとは、キリストの死に方を見て、「本当にこの人は神の子だった」(マルコ15,9)と証言したことです。
(3)ローマの兵士、ステファノスとロンギヌス
小さく描かれている証人はローマの兵士たちです。右側にいる一人はステファノスで、イエスが十字架上で「渇く」と言った時に、酢を含んだスポンジをお口に差し出した者です。左側の槍を持つもう一人は、ロンギヌスです。彼は、脇腹を刺してから血と水が流れ出たことを目撃し、キリストが既に亡くなられた証拠を見せました。この兵士が二人とも、キリストが誠に息を引き取ったことの証人です。
(4)象徴的な「証人」
イエスの左足のふくらはぎの横に、非常に小さな雄鶏が描かれています。福音の文脈の中で、キリストが死を迎える日の朝早く雄鶏が鳴くことによって、イエスを知らないと言った使徒ペトロはキリストを裏切ったことに気付き、痛悔の念を思い起こさせます。リリーフとして、週の初めの日、朝早くにも雄鶏が鳴き、この度、キリストの復活を知らせ、死が滅ぼされたことによって罪も取り除かれたメッセージを響かせます。
十字架の最下部の作品がひどく損傷しているため、キリストの足元に描かれている六人は判別することができません。彼らはウンブリア地方の保護聖人であると思われています。
結び
このサン・ダミアーノの十字架は、キリストの御受難ということより、キリストの御復活による神の愛と新しい命の勝利を、また御昇天によって「約束の地」である天国での三位一体の交わりの中で神の君臨と栄光に入る喜びを現しています。いわゆる、描かれている過越の神秘は、地上を旅する私たちが、キリストの死と復活に与ることによって天国に導かれることを表しています。
この十字架を仰ぎ見る私たちは、そのイコンに登場するキリストの過越の証人に並び、キリストの死と復活について証しするように招かれています。初代教会で始まったその証しは、代々に続き、サン・ダミアーノの十字架ができた頃のアシジの聖フランシスコの時代を経て、現代に生きる私たちに辿り着きました。それは、信仰のうちにキリストに出会った私たちも、大いなる喜びをもって次の世代の人々にキリストの死と復活の証人となるためです。
「至聖三者」
カトリック半田教会の聖堂では、2024年11月17日(日)に「至聖三者」と「サン・ダミアーノ十字架」という二つのイコンが主日のミサの中で除幕され、主任司祭によって祝別されました。この度、三位一体を表現する「至聖三者」と呼ばれるイコンが伝えるメッセージを説明します。
半田教会の聖画は2024年にギリシアで描かれ、そのオリジナルは、1411年に画家アンドレイ・ルブリョフ(1360―1430)によってセルギイ大修道院(ロシアの首都モスクワの周辺)のイコンとして描かれました。
唯一の神が三位一体であるという啓示は、イエス・キリストが洗礼をお受けになった時に鳩の姿をとって聖霊が降り、天から「これは私の愛する子」との御父の声が聞こえたという出来事が物語ります。また、キリストは御復活の後、弟子たちに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けるようにお命じになったということも三位一体について大きな証しであります。
教会は、御子が人となったキリストであると信じ、御父を「御手」のシンボルで、聖霊を「鳩」のシンボルで表現する伝統があります。旧約聖書時代には三位一体の教えはないが、イスラエルの最初の先祖アブラハムは、息子の誕生を告げに来られた三名の神秘的な訪問者をマムレの樫の木の下に熱く歓迎して、「主」という神の称号で呼びました。このモチーフを用いて、画家ルブリョフは、信じるすべての人の父と言われるアブラハムが三位一体の神に出会った最初の人物であることを促し、イコンで至聖三者として表現します。それを明確にするのは聖画の上部に書かれた“H яГiя ΤPIяC”という古典スラブ文字です。その字の発音は「ハギア・トリアス」で、「三位一体」という意味のギリシア語の言葉です。
1.至聖三者の姿が表現する神の唯一性
このイコンに登場する至聖三者は、左側に御父と中央に御子と右側に聖霊がおられます。皆が白い祭壇(神の食卓)を囲んでいます。お顔は三者とも全く同じ表情であり、性別は男か女かが識別できないように描かれています。この光景は、三者とも唯一の神であることを表現します。一人ひとりの頭の周りにある同じ黄金の光輪は、三者の聖性と栄光が同じであり、黄金の背景も三者の聖性が全地を覆い、全世界がその栄光で満たされていることを伝えています。そして、一人ひとりが手に持つ同じ形の王笏も、三者とも同じ最高の主権者であることを現わします。
至聖三者が威厳を持って三つの王座に座しておられるが、腰を一つの食卓にも掛けている状態は、神の臨在の中心が祭壇にあることを示します。翼を持って互いに繋がっていることも、三者の一致のしるしです。その翼は三者の自由、勢い、無限性の象徴です。座っている御父と聖霊の足が見えますが、不思議なことにその足は歩く姿勢になっていて、イコンを見ている人の方へ進んでいるという印象を与えます。
至聖三者は、座っても、歩いても、飛んでいても、どんな行動の中でも、調和、品格、威厳が備わっており、イコンを見る人に近づき、心を神の平和と安心で満たします。
2.至聖三者の互いの関係と格別の役割
至聖三者の着用する服はそれぞれが異なりますが、その共通の青色は天に属する神性を示します。右側におられる聖霊は、青い衣服の上に緑っぽい外套を着用し、すべてを生かす役割を持つ方であることを示します。聖霊の姿は安静の状態にあり、平和を実現する方であることも促しています。
中央におられる御子の服装の半分は、土のような濃い赤で、もう半分は鮮やかな青です。その濃い赤は御子キリストの愛の深さを示すと同時に、御子が土から造られた人間となられたことも示します。また、外套の鮮やかな青は、神性を保っていることを強調します。こうして、御子の姿の内に天と地、神と人が一つに結ばれていることを促しています。幅の非常に広い御子の右手は、罪と死に打ち勝つ御腕の力を示し、救い主の役割を浮き彫りにします。その手の伸ばしている二本の指は、御自分の内に神性と人性という二つの本性が存在することを教えます。右の肩に掛けられているゴ―ルデンのストーラは大祭司の威厳のしるしであり、即ち、御子キリストは神と人との間の仲介者であることを示します。
左側におられる御父は直接身に着けている青い服も神性を現わします。その上に着用している大きな外套の色合いは識別ができない神秘的な模様を持っています。創造された天地万物のあらゆるものは、御父の内に存在することを促します。
御父が御子に、御子が聖霊に、聖霊が御父に体を向け、こうして至聖三者の状態は時計回りの動きをする輪を描いています。輪とは初めも終わりもない特徴があることから、三位一体の永遠性を現わし、神が完全な存在であることを促しています。神の食卓につく御父と聖霊の間にもう一つの席を設ける余裕があるから、もう一人がその輪に招かれているかのように見えます。四人目は、イコンを見ている人のことでしょう。もし、その人は神の食卓に着いたら、三位一体の交わりの輪が完成される印象を与えます。
真っ白の祭壇とその上に黄金の杯の中に載せてあるちっぽけな小羊は、御ミサの時に、「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」という聖体拝領の儀を指し示します。ところで、イコンの至聖三者のシルエットは、その小羊が御子キリストご自身であることを案じています。即ち、御父と聖霊の形が大きな杯を描き、その中に御子の全身が入っているという光景を見受けます。こうして、「神の小羊の食卓に招かれた人」は、実際に生きておられる御子キリストを拝領するという信仰内容を浮き彫りにしています。
3.神の家への人間の旅
至聖三者の体の時計回りの向きに対して、お顔と目の向きは反時計回りに動く輪を描いています。その動きは象徴的に、神の御心にかなった私たちの人生の旅を進む方向を指し示します。三者の一人ひとりの頭上に「岩、木、家」という三つの象徴の意味も、反時計回りの順番に見出すのは大切です。
聖霊の姿の上に「岩」が描かれています。一方では、人生の旅路の中で乗り越えなければならない大きな「岩」のような挑戦、困難や煩いなどを示します。他方では、どんな試練に遭遇したとしても聖霊が私たちに揺るぎない岩のような信仰の恵みを与えてくださることを促します。聖霊は私たちを神と繋ぐ祈る心を造り、生かし、御子に導く役割を果たすからです。
その次の象徴は御子の姿の上にある「木」です。聖書の中で「木」の象徴は広い意味があります。世の始めに楽園で禁じられた「木」から実を取って食べたアダムとヱヴァが罪を犯し、神から離れて死すべき者になったという一つの意味があります。アブラハムはマムレの樫の「木」の所で至聖三者を迎えて子孫が生まれる約束を受けたので、希望のしるしとなりました。また、キリストは十字架の「木」の上で命をお献げになったことによって死を滅ぼしたので、救いのシンボルとなりました。世の終わりに預言されている「命の木」からとった実は永遠の命を頂く象徴です。イコンの生の「木」は、御子に関係するので、様々な意味の中で死から復活の命へと移すキリストの過越の神秘を中心にする救いの業を表現しています。
主任司祭 ジエブーラ・エウゲニウス
ヨハネによる福音の中では、「私の父の家には、住まいがたくさんある」というキリストの証言があります。したがって、御父の姿の上に描かれている家は、人生の旅路の終点です。扉も窓もすべて開けっぱなしのこの家は、旅中で迷ったりするすべての人が、どんな時にも慈しみ深い御父に歓迎され、帰宅できるようにされます。そして、永遠の宴に参加して三位一体の交わりの中で共に住むことを促しています。
結論
以上のイコンのメッセージを簡単にまとめますと、以下の通りのことを表現します。三位一体の神は先に私たちの一人ひとりの所に訪れ、善い知らせを告げます。もし、アブラハムのように歓迎するなら、三位一体は御子キリストの体であるいけにえの小羊の食卓に招いてくださいます。そして聖霊から「岩」のような強い信仰の恵みを頂き、キリストの「木」によって救いの恵みを受け、御父の家に到達して三位一体の交わりの中で永遠に生きることができる、というメッセージです。
主任司祭
ジエブーラ・エウゲニウス